√ねずみ 青空に舞う紙飛行機は伝書鳩の夢を見るか

大槻穂垂にはロマンチストの気がある。
その事に気付いたのは、彼女と知り合ってから二か月程経ってからの事だった。
いや、そもそも変人だったのには気付いていた。入学式に真っ白な白衣を着て登場した彼女は、教師に咎められても何処吹く風とばかりに聞き入れず、結局そのまま式を受けるまでに至った。
そんな事をして人から目を付けられない筈が無く、ある者は彼女を腫れもの扱いして遠ざけ、ある者は嫌悪に満ちた瞳で彼女を見つめた。
しかし、彼女は聡明な少女だった。
晴れた日の空に浮かぶ雲のように冴え冴えとした白衣を翻し、ありとあらゆる場面で活躍した。座学、体育、クラス内のコミュニケーションに至るまで。
かくてその変人少女は大槻穂垂という名をこの狭い世界に刻み込む事に成功し、実力主義となりつつある我が世代は変人たる彼女の存在を受け入れた。

インクの染みた紙飛行機が空を飛ぶ。ひゅう、と風が一つ吹いて、その白い鳥は大空を駆けて行った。
「なんでまた、そんな面倒臭い事を。本当に届くと思ってるのか?」
「どうだろうね……きっと立場が逆だったら届くって言えるだろうけど、私はまだ甘ちゃんロマンチストだからなあ。」
「ロマンチストに甘ちゃんも何も無いだろう。」
「それはどうかな。そう思ってるのはきっと君と君と同じ考えを持つ奴だけさ。」
「僕と同じ考えを持つ奴は、きっとこの世界の大半を占めているぜ。」
「そんな事、世界人口七十億人に聞いてみないと分からないよ。」
大槻穂垂と僕は放課後の教室にいる。まだ一年生だから、四階だ。彼女はその四階の窓枠に腰かけて、翡翠の瞳に碧空を映し出す。
「こう上ばかり見上げてるとさ、世界の色は青しかないんだ、って思っちゃわない?」
「思っちゃわない。何故なら上ばかり見上げる事は無いからだ。
僕は君と違って、しっかり現実を見据えているからな。
だから世界は色んな色に溢れていることを知っている。」
「佐藤君もなんだかんだ言ってポエミーだよね。」
こいつにとって現実とは無粋で退屈で、色の無いものらしい。現実に生きる僕としては大変心外な感想である。彼女は空想ばかり見続けているから、その眩しさに目がくらんで世界がモノクロに見えてしまうのだ。
夢色の脳内を満たす物質は一体なんなのだろうか。遥かな世界の果てへの憧憬、子供の頃の夢、それとも未来への狂おしいほどの希望?
どれも、もうとうに捨てたものだ。現実に揉まれ、現実に抱かれ、確かにそこにある素晴らしきものと出会い、代わりに捨てたものだ。僕はもう、あったか無かったか分かったもんじゃないものに縋る程子供じゃない。
僕はふつうの人間だ。
「ねえ、佐藤君。佐藤君は、多分勘違いしていると思うんだけど。」
「何だ」
「私は、ふつうの人間だよ。佐藤君が思ってるほど妄想癖は無いし、子供でもない。私は極々ふつうの、悲しいくらいの一般人だ。甘ちゃんロマンチストなんだよ。」
「一般人が白衣を着て入学式に参加するか?」
「特別に憧れるふつうだからね。変な事もしてみたくなる。でもそれだけだ。
結局私は周りの視線に耐えきれなくなって自分の居場所を作ってしまった。ロマンチストなら自分の事だけ気にしてればいいのに、結局私は人がいないと、人に好意的に見られてないとダメな人間だったんだ。」
「自分だけ見てても良い空想は生まれないだろう。」
「良いとか、悪いとかじゃないんだよ。ロマンチストがロマンチストたる証は空を想う事だけに全てをかける事なの。それはとても虚しくて、寂しくて、辛い道だよ。
でも、だからこそロマンチストは世界を越える事が出来る……ねえ佐藤くん、私の話を聞いてくれない?」
「もう散々聞いてる。今更過ぎるぞ。」
「ふふ、ありがとう。皆には内緒にしてね。」

私ね、昔友達がいたんだ。私の、たった一人のお友達。って、これは知ってるよね。さっきの紙飛行機飛ばす時に聞いてきたもんね。そんなものどうするつもりだって。
あ、言っておくけど、皇さんや八月朔日さんを友達と思って無い訳じゃないよ。でも、そう、例えるなら本当のお友達だったんだ、彼女は。
最初で最後の本当のお友達。藤町はふりっていうんだけど、聞いた事ない?
そうそう、その子だよ。変わった名前だし、当時は散々ニュースになったからね、中学二年生の女子生徒が謎の失踪を遂げたって。
今でも時々その子の家に行くんだけどね、お母さんとか、見てると本当に可哀想になってくるんだ。もう、藤町さんがいなくなってからすっかり痩せちゃって。
本当のお友達とか言う割には苗字で呼ぶんだな、って、無粋だよそういうのは。彼女と私の友情は世間的価値で計れるものではないのです。
だって、私はその子の事が大好きだったし、尊敬してた。
聞いてよ、藤町さんったらね、おかしいんだよ。いっつも「手足がトイレ掃除の道具の冥王星人がカニクリームコロッケの復讐にやってきたらどう対処したらいいか」とか「花粉症で乳首が黒いベジタリアンがノーベル数学賞をとるまでの経緯」とかいう妄想を私に話してくれるの。
そのせいで私以外友達はいなかったんだけどね。クラスでは上手くやってたけど、同級生と山も谷も無い話をする彼女は、特に楽しそうって訳でも無かった。でも、彼女はそれでも良かったんだと思うよ。あの子にとっての世界はクラスなんていう狭い世界じゃなくって、もっともっと狭い、自分の脳みその中だったんだから。
あっ、でもノゾミさんを忘れてた。近所ではそこそこ有名人なんだけど、聞いた事ない?高校生にもなってカードショップで小学生をいじめてる人。彼女も奇天烈な人だよねえ。
藤町さんは結構ノゾミさんの事が好きだったみたい。まるで動物園の猿を見てるようで楽しいんだってさ。
ああ、そうそうその人。はじめからフルネームで言えば良かったね。へえ、あの人弟いたんだ。知らなかった。
でもね、例えノゾミさんが奇想天外な奴だとしても、彼女の事を理解してたのは私だけ!それだけは絶対だよ。藤町さんの妄想話を聞いてあげれる人間なんてこの世に私ただ一人、のはずだったんだ。
もしかしたらね、これは私にとって凄く嫌な想像――ううん、確信。でも藤町さんにしてみたら、きっと何よりも尊い事だ。
藤町さんは、世界の扉を見つけちゃったんだよ。
え、何その顔。佐藤君って普段がしかめっ面だから、笑うと変な顔になるよね。褒めてる褒めてる。嘘だけど。
ちょっと前に流行ったゲームあったじゃない?夢の中の世界をさまよう〜って感じの。
地球は丸いから、あのゲームみたいにひたすら歩いても同じ所をぐるぐる回るだけだけど、何処かに確かに扉があるんだ。それで、その扉を開けると次の世界へ行ける。
藤町さんは――その扉を潜り抜けて、私の手の届かないところに行っちゃったんだ。
違うよ。死んだとかそういう事じゃない。彼女はきっと今も生きてるよ。生きて、わたし達より上の世界から私たちを見下ろしてる。
藤町さんから最後に聞いた話は何だったかな。そうだ、「覆面ブリーフの男が屋根から屋根へと駆け回る」お話だ。
あの話を最後に藤町さんはいなくなっちゃった。
何も残さずに。私と家族とそれまで関わって来たものを全部全部きっぱりさっぱり捨てて。あのノゾミさんでさえ、世界の扉の前には価値の無いものだったのかな。
まあ、ね。そんな訳で、私は置いてかれちゃった。
私は藤町さんの事を理解してただけだから。藤町さんに面白い事を、何にもあげれてなかった。それに気付いたのはいなくなってからだったなあ。
そんなんで本当のお友達って――言えるのです。何故なら私はロマンチストだから。
大槻穂垂の世界は大槻穂垂にしか見えていないの。そして見える世界が、本当のお友達を指し示していたらそれは本当のお友達なの。
独り善がり?うるさいなあ、私はその言葉が嫌いだし、そんなどうでもいい言葉を気にする自分も好きじゃない。真なるロマンチストは独り善がりという言葉自体を気にしないものだからね。
そうだ。私がロマンチストを志す理由を教えてなかったね。
それはね、いつかロマンチストを極められたら、藤町さんのいるところに辿り着けるって信じてるからなの。
あんな妄想癖があった藤町さんが世界の扉を見つけちゃったんだもの、そう思うのも無理はないでしょ?
それでね、また藤町さんの隣に立つの。隣に立って、また一緒にこの青しかない世界を見続けるんだ。

「はあ、話した話した。ご清聴感謝いたします。」
「うーん理解し難い話だ。」
「そうでしょうね。ううん、いいの。聞いてほしかっただけ。私は甘ちゃんロマンチストだから、聞いてくれる人が必要なの。」
「人は誰でもそうじゃないのか?」
「それは佐藤君から見た世界の話だよ。私の世界じゃそうじゃない。真なるロマンチストは自分の空想以外のものがすべて不必要なの。」
「残念な人間だな。」
「世間的には人の道を踏み外したもいいとこだよね。」
大槻はにや、と笑った。窓枠の向こうの空が眩しすぎて目を細める。大槻は瞼をしっかり開いて遠く、遠くの方を見ている。緑色の目には碧が映っている。
あの紙飛行機は彼女の友人に届いただろうか。

なあ、藤町はふりよ。どうして君は、何もかもを捨ててしまったんだ。君の友人は、凄く寂しそうにしてる。
君みたいな人間がいるという事を知ったら、俺は不安になってしまったよ。
もしも俺の大事な人間が俺を置いてどこか世界の果てへ行ってしまったら、俺もこいつみたいに、あいつがいるだけの空を見続けて奇跡染みた再会を待つしかないのか。
なんてやつだよ、藤町。お前みたいな種類の人間は、昔から大嫌いだ。大嫌いなんだ。

馬鹿な空想で、己の望む事だけをして、常識なんて顧みないで、人に迷惑をかける。
それで言うんだ。「私が好きなことを出来ない世界なんて、もう滅んでるようなものだよ」ってな。
クソッタレ。
満足か。

でもさ、そういう風に笑顔で言ってるお前らに、それで良いんだ、思ってしまうのは
俺達はきっと、ある意味お前たち以上に、どうしようもないからだろうな。

「届くといいな」
「うん。」

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